水堀 祭典親睦委員会(T-Backs)

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裸祭の歴史年表 NEW

見付天神裸祭ガイドブック 平成22年版より引用しています。

元号 西暦 内容
正歴4年 993年 一条天皇の正歴4年8月11日に、勅を奉じて京都の北野天神から矢奈比賣神社に北野天神を勧請した。
この日を例祭の日とし、このとき歓喜して人々が躍ったことが元禄15年「菅公八百年祭行事次第」に記されている。(『磐田市誌』)
明和4年 1767年 根元車(現 西坂町)の若者が守るべき定め書が出させる。
寛政3年 1791年 四町参加の祭狂言。(東坂町「庚申講掛銭帳」より)
寛政4年 1792年 大風雨高潮災害のため、祭狂言、拝殿踊りが中止となる。(東坂町「庚申講掛銭帳」より)
享和元年 1801年 大不作のため、祭狂言は中止。(東坂町「庚申講掛銭帳」より)
享和3年 1803年 『遠江古蹟図絵』藤長庚編著
文化年間 ~1817年 『事実証談』中村乗高著
文化11年 1814年 宿方故障、祭狂言停止し、神事のみ行う。(東坂町「庚申講掛銭帳」より)
文化13年 1816年 拝殿踊り二町交代制がとられる。この年拝殿踊りは馬場町と東坂町。
文化14年 1817年 拝殿踊りは西坂町と宿町が務める。
文政2年 1819年 西坂町と宿町が定式通り祭狂言の当番を務める。(東坂町「庚申講掛銭帳」より)
文政9年 1826年 参銭割賦で故障、御旅所変更で馬場町不承知。祭礼後惣社神主が江戸に直訴。
神主、縫之介ら処罰される。(東坂町「庚申講掛銭帳」より)
天保3年 1832年 遠く見ます」七世市川団十郎著
嘉衛2年 1849年 住吉町の幟「比佐麻里祭」に銘記された年号。
安政元年 1854年 神輿渡御の際、中川橋で輿番の権現小路と御殿小路との間で喧嘩沙汰が起こる。
安政2年 1855年 「為取替議定一札之事」祭礼の神輿担ぎを権現と御殿小路とで隔年で務める議定の一札。
明治4年 1871年 御殿小路の「差入申一札之事」
明治18年 1885年 御殿小路輿番を地脇町に譲り、輿番は権現小路と地脇町で隔年で担当。
明治31年 1898年 神村直三郎著「遠江國見付町矢奈比売神社祭典次第」『風俗画報』170号
明治36年 1903年 「遠江見附駅の祭礼」(『風俗画報』)柴山道人著
明治40年 1907年 『見付次第』中山共古著
明治41年 1908年 「見付天神の裸体祭」(『風俗画報』)淡遠小史著
「見付に関する見聞雑記」赤松範一著
大正3年 1914年 子供連が始まる。
大正5年 1916年 「例大祭 祭儀次第書附祝詞」を神職の川出新一郎氏が記録する。
昭和6年 1931年 新通町が龍宮社として裸祭に加わる。
昭和8年 1933年 見付天神社の銅板萱四棟造りの幣殿、拝殿が造営される。8月に御造営記念行事。
昭和29年 1954年 浜垢離へ、屋形船からバスで行くことになる。
昭和35年 1960年 祭典時に河原町と中央町で暴力事件が発生する。
昭和36年 1961年 祭典日が8月10日に近い土・日曜日に変更される。
また、「宵の祭」と「夜中の祭」が一つの祭になり、夜中には総社への渡御が終わることになる。
昭和38年 1963年 隔年で地脇町と権現町で輿番をやっていたが、東中区と権現町の隔年交代になる。
昭和52年 1977年 神輿渡御の時間が1時間延長され、午前1時までとなる。
梯団長精度が始まる。
昭和61年 1986年 見付天神裸祭が磐田市無形民俗文化財に指定される。
北部4町(美登里町、北見町、元宮町、緑ヶ丘)と今之浦五丁目が東中区に参加する。
昭和63年 1988年 元天神町が東区に参加する。
平成7年 1995年 裸祭実行委員会が発足する。
水堀が西区の梯団に参加する。
平成11年 1999年 浜垢離の場所が福田町立福田中学校東地先に再び戻る。
平成12年 2000年 今之浦四丁目が東中区に仲間入りする。(12/27付)
国の重要無形文化財に指定される。
祭典前に暴力追放研修会を開催するようになる。
平成14年 2002年 見付天神裸祭実行委員会が発展解消して裸祭保存会となる。初代保存会長は石川大造。
平成15年 2003年 『見付天神裸祭手引書』裸祭保存会刊が刊行される。
平成17年 2005年 子供連連絡会が祭典前にもたれ、子供連の連絡調整を行う。
平成19年 2007年 ガイドブック「見付天神裸祭」の創刊号が出、全戸配布される。これ以降毎年刊行。
平成21年 2009年 浜垢離の屋形船を元倉町の部材により陸上で復元し、二番町、幸町のお囃子を奏する。